痛い外野守備
最初に就職した会社は、この地方ではわりと大きな会社でした。映画同好会に入り試写会とか会社の講堂で上映会とかがあり、山奥の田舎で育った私には別世界のような楽しい日々でしたが。
1年位したころ、それまで誘われなかったソフトのチームの試合に誘われて、人生で一度も試合たことない外野のポジションに着きました。
それは始まってすぐだと思う。(あまりに悲惨で記憶消去)
右翼の私右前方に飛んできた打球に一生懸命走りギリギリ追いついた。
直後人が倒れた。センターの先輩だった。起き上がらない。
みんなが集まる。対戦相手の米軍チームが氷を持ってやって来た。
~そこまでは覚えている。後の記憶はない。
結局2年で辞めたのかなあ。
素人が外野を守るのは危険なのだ。
プロでも接触事故で野球人生がダメになった方もいるくらい。
あれから転職が始まった。ただ、景気が良い時代だったので苦労は少なかったのだが。
思うに、子ども時代から我慢がしみついて、自分の意見を言うことを押さえていたから、未だにNOが言えない。
結果、人の嫌がる役員は全部引き受けることになるのだが。
それこそ、イヤイヤやっている方ばかりをまとめるのは至難なことで、いい思い出はほぼないのだが。
人生はよくできているもので、子育てに関してはそれらが教訓になった気がする。
楽しむことが出来る生き方、って感じかな。
車で海山川、どこでもキャンプという感じでの旅行。
大型娯楽施設ではなく自然の中で、ありふれた風景に美しさを見出す、楽しみを見出すという感じか。
それにしても、あの頃の自分は、何もしゃべれない、自分をどう表現していいかわからない段階だった。
子どもたちも子ども会ソフトチームには入ったが、まったく冴えなかった。
こちらも2年目には自然消滅。
一方の映画は、楽しい思い出しかないので、今も夢中。
試写会・優待・上映会、さすが大きな会社と、田舎で過ごした日々と比べて浮かれてたなあ。
そうそう、電気メーカー協賛の試写会では、ラジカセ(3等)が当たってステージに立った。
それ以来のステージは、みんなが嫌がる役員になってからのこと。
1000人規模も慣れて、最大は2000人の前で議長も経験。
仕事では全く目が出ないような人生だったが、金にならない役員人生では、なかなか経験できない大きな大会を何回も運営した。
そして分かった。
人を恨まないかぎり、そう悪いことはないって。